将棋先生の「盤上・盤外」この一手

湯の町別府の将棋教室から考察した社会をつづります

『素粒子物理学を楽しむ本』を読んだんです

素粒子物理学を楽しむ本』を読んだんです。

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子どもの頃、すべての物質は電子、陽子、中性子の3つからできているって学んだ。でも、例えば、折り紙を半分に切って、それをまた半分に切ってって続けていったら、いつか紙じゃないものになるって信じられなかった。どんなに小さくしたって、紙は紙のはずじゃんか。

イヤ違うんだよ、最後は電子と陽子と中性子になるんだよ。

それは、やっぱり、納得できないこと。

それでも、まあ、なんとなくっていうか、むりやり納得してきた。それが、大人になるってことでもあるのだろう。

 

ところがである。昨今の世界観はまた変わってきている。陽子も中性子も、まだ分割できるってことらしい。分割したもの、それが素粒子ってことになっている。ちょっと詳しく書くと、電子とアップクォークダウンクォークって3つの素粒子から、すべての物質ができている。

 

なんだ、やっぱり3つか。よくわからないけれど、そう思った。

自然は、というか、神様は「3」が好みなのかもしれないなあ。そう言えば、形の始まりは3角形だし。そんなふうに感心したのだけれど、驚いたことに、力も素粒子なんだそうだ。たとえば、原子核内では素粒子をキャッチボールしてるから、壊れないですんでいるんだそうな。質量だって素粒子。これらは、物質じゃないので、さっきの3つじゃなくって、たとえば質量だったらヒッグス粒子ってものが関係してくるそうだ。

だから、っていうか、そもそもっていうか、素粒子は大きさも形もない粒なんだそうだ。でもさ、大きさがないものが、たくさん集まったって、大きくならないよね。

ひえ~だね。

 

でもね。

 

でも、この本はすごい。なぜって、わかった気にさせてくれるから。その気にさせるってことは、すごいことだよ。

 

大拍手だなあ。

 

素粒子物理学を楽しむ本 (学研科学選書)

素粒子物理学を楽しむ本 (学研科学選書)

 

 

『人間はどこから来たのか』を読んだんです

『人間はどこから来たのか』を読んだんです。

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いやあ、面白い本でした。

エンデの『モモ』に「時間泥棒」って言葉が出てきますが、ふと思い出しました。宇宙が生まれ、つまり時間や空間が生まれ、その中で素粒子が僕ら人間という生き物を構成するまでの道のりを、ゆったりと書いてくれています。

そして、すべての「物」が最後には素粒子に戻っていくという運命。それを悲壮感はなく、自然な進捗といった感覚で実に淡々と記ながら、それでいて、暖かさを感じさせる筆力。唸りました。

それもそのはず、著者の森戸 潔 氏は絵本編集者でもあるそうなんです。

だからでしょう、僕にも読める科学本に仕上がっています。

 

 

毛利甚八さんの「にたあ」

毛利さんが亡くなった。

毛利さんは、僕より、少しだけ年長。

少年院でのご縁があり、その研究会で、杉乃井ホテルで同部屋だったことがある。
棚湯につかりながら、その頃、社会を沸騰させた「裁判員制度」について、生意気にも論じさせてもらった。
「家裁の人」を書かれた毛利さんは、その方面の研究をされていて、すごいなあと思わされた。
裁判官だけの力より、ごく一般の人の常識を信じる方が、より効果がある。
そんな考えを聞いた。

真剣な顔と笑顔とのその高度差がすごく、そこが魅力的な方だった。

日本には3つ素敵な場所があります。
その一つが、豊後高田なんです。だから越してきたんです。
そうも、話していた。

杉乃井の窓から、別府を見渡し、進駐軍の話をしてくれた。
僕は別府生まれなのに、知らないことが、たくさんあった。
何にでも、詳しいのだなあと感心させられた。
漫画の原作という仕事、その苦労、難しさ。
真剣に語ってくれた。

なにより、こんな僕に、なんて一生懸命に話してくれるんだろうと不思議にさえ思った。

毛利さんは、罪を犯してしまった少年達にウクレレを教えていた。
ウクレレのなんたるかを知らぬ僕にも、一生懸命に教えてくれた。
「簡単ですよ。ウクレレって、ギターと同じですよ。」
そう言って、にたあと笑うのである。
まさしく、にたあであった。
この「にたあ」なら、少年達もウクレレ好きになるだろうなあと思った。
犯罪を犯した少年達へのまなざしは、僕の一億倍やさしかった。

戦いながら、安らかな方だった。

だから、きっと、亡くなった今も安らかなのだと思う。

僕は、あんなに戦えないし、安らかに生きることも出来ない。
そして、一億倍やさしくなれない。だから、すごい人だなあ、と思う。

せめて、今日くらいは、あの「にたあ」を真似したいと思う。

でも、明日はきっと出来ない。

情けないけれど、それが、僕の哀悼の意です。

毛利さん、すごいなあ。