将棋先生の「盤上・盤外」この一手

湯の町別府の将棋教室から考察した社会をつづります

第6章 蘇我氏の時代 (2)「馬子という名前の秘密」

第6章 蘇我氏の時代 (2)「馬子という名前の秘密」

前回までの記事は下記です。


第6章 蘇我氏の時代 (1)「馬子監督と長嶋コーチ」 - 将棋先生の「盤上・盤外」この一手

では、今回の記事をどうぞ。
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蘇我馬子(そがのうまこ)さん。
どの教科書にも必ず顔を出す大和朝廷の実力者だ。
彼の役職は「大臣(おおおみ)」だった。

前回も書いたけど、馬子さんは、神道が定着していた日本に、当時
の外国の宗教である仏教を積極的に持ち込もうとした。
当然、ものすごい反発を受けた。
宗教は、政治と分けては考えられないほど重要なものだったから、
無理もない。

ライバルであり、仏教をきらう「大連(おおむらじ)」物部守屋
(もののべのもりや)さんと戦争にまでいたるほどの混乱をまねい
たんだ。
もちろん、権力闘争ではあるが、宗教戦争と呼んでもいいだろう。
結果的にその闘いに勝ち、仏教を日本に定着させることに成功する。
けれど・・・。
もし、負けていれば、当然、大臣という地位はもちろん、命さえも
失っただろう。

それほどまでして、自分の命をかけてまで、馬子さんを仏教に引き
つけたものはなんだったのだろうか?

僕はその謎に「馬子」という名前から迫ってみた。
というか、名前の謎をとこうとして、その答えをも見つけちゃった
気がするんだ。

僕のかみさんが言い放ったあの言葉・・・。
「馬子って名前、インパクトあるもんねえ、忘れないわよ。」
そう、とても印象的な名前「馬子」・・・・。

告白します・・。
中学生時代の僕も、
「馬子って変な名前やなあ・・。
 なんで、そんな名前つけたんやろうか?」って思ったんです。
他人様の名前にとやかく言ってはいけない、なんて分別は持ち合わ
せていなかったんですね。

とにかく・・・。もし、僕が馬子さんのお父さんだったら・・・。
どんな場合に自分の息子に「馬子」って名前をつけるだろうか・・?

僕は、そんな想像をしたんです。

最初に思いついたのは、お父さんが「馬助」とか「馬太郎」って名
前で、親の一字を息子に継がせたって可能性です。
ねっ。これなら、ありえそうでしょ。
例えば、父「秀吉(ひでよし)」、息子「秀頼(ひでより)」なん
て感じです。

で、馬子さんのお父さんの名前を調べてみたところ・・・。

ガーン・・・。
違うじゃないか!
馬子さんのお父さんは「稲目(いなめ)」って名前だった。
「稲」と「馬」とじゃ似ても似つかない・・・。

じゃあ、いなめさん、なんで、息子に「馬子」なんて名前を・・・。
ひょっとして、ただ単純に「馬」好きだったのか、いなめさんっ?。
いや、まてよ・・・。
僕は、「あること」を考えついた。

そして、馬子さんの生年月日を調べてみた。
しかし・・・。
残念ながら、これが不明・・・。歴史書(日本書記や古事記)には
残っていない。
でも、僕はあきらめなかった。
ひらめいた「あること」から、月日までは無理でも、生年くらいは、
なんとか、推理できそうな気がしたんだ。

亡くなった年はわかっている、それは、西暦626年だ。
これは歴史書にちゃんと残っている。
もう一つ、馬子さんの生まれた年を推定するヒントになる事柄があっ
た。
西暦572年ごろに、大臣に任命されているんだ。
おそらく、そのころの馬子さんは30才から40才だろうから、生
まれた年は、およそ、530年から540年の間だと僕は読んだ・・・。
もう、ここまでくれば、簡単だ。

「ねえねえ、いったい、どうやって馬子さんの生まれた年がわかる
 の?『あること』ってなんなの?」

横で見ていたかみさんがそう言った。

ずばり、言います。
僕がひらめいた「あること」っていうのは「干支(えと)」のこと
なんだ。
あの「ね、うし、とら・・・」って「干支」。

いなめさんが、息子に「馬子」って名をつけたのは、「馬年」生ま
れだからじゃないかって考えついたんです。

この頃、すでに「干支」は中国から日本に伝わっていて、最新の学
問として、豪族や大王などは政治や行事などに活用していたのです。

大臣の位にいる「蘇我いなめ」さんは当然そういう知識を持ってい
ただろうし、興味関心もあったに違いない。

そう考えて、僕は530年から540年にかけての馬年を調べてみた。
それは、「538年」だった。

えっ、538年・・・。
僕はびっくりした。

歴史にくわしい方なら、この538年が特別な年だってことは、も
うおわかりでしょ。
そう、「仏教伝来」の年と言われ、受験生は
「仏教伝来・ご参拝(538)」などと覚えさせられた、
あの538年です。

僕は遠い昔、大和の時代に思いをはせました。

中国では随という大国が生まれようとしていた6世紀中頃。
飛鳥の地では、もっとも大きな、巨大というよりも壮大な屋敷の1
室に、2人の男が向かい合い座っていた・・・。

一人は大臣、蘇我稲目
そして、一人は、まだ幼き息子、馬子である。

稲目が、重々しく口を開いた。
「馬子よ。
 この父が、そなたに、なぜ『馬子』と名付けたか知っておるの。」

「はい。もちろん、存じております。
 我は馬の干支に生を受け、その活力あふれるたくましさにあやか
 れと名付けられました。
 その名に負けず、大臣たる父の後を継げるよう、自身を磨いてい
 くつもりでございます。」

「おう、頼もしいことじゃ。
 そなたの成長は、この父の喜びでもあるぞ。
 そして、馬子よ。
 今ひとつ、忘れてはならぬことがある。」

「忘れてはならぬこと・・。
 それは、いったい何でございましょう。」

「そなたの生まれた馬の年。
 それは、百済(くだら)の国王からわが大和の大王に、ありがた
 き御仏(みほとけ)の像と経文(きょうぶん)が送られてきた、
 まさにその年じゃ。
 大王は我の願いをお聞きくださり、その仏像を我に賜(たまわ)
 れた。
 仏がこの蘇我の家にお出まし下さったのじゃ。
 いわば、仏と蘇我が一体となった、我にとって忘れることのでき
 ぬ年じゃ。
 その忘れがたき年に、そなたは、我に、いや、この蘇我家に与え
 られた息子なのじゃ。
 蘇我家にとって、仏の教えとともに与えられた男子、特別な人間
 なのじゃ。
 よいか、馬子。そなたは、仏とともにある。
 仏の教えこそ、そなたを導く光じゃ。
 それを忘れるでない。」

「はい。
 この馬子、父上の教え、お気持ち、決して忘れることはございま
 せん。」

「違う。それは、違うぞ、馬子。
 父の教えではない。
 これは仏のご意志なのじゃ。
 仏のためならば、命さえも惜しむことはならぬぞ。
 悲しきことじゃが、この大和には仏を憎む者が山ほどいる。
 それは、すべてそなたの敵じゃ。
 そなたは、仏の敵を蹴散らす雄々しき馬となれ。
 そして、この大和の国を仏の国とするのじゃ。
 よいな、馬子。」

「わかりました、父上。
 我は、父上が下さった名に恥じぬよう仏につくしまする。」

やがて、その男の子は父の後を継ぎ、大和朝廷の大臣となる。

そして、まさに、人生を千里の馬のごとく駈け、仏の教えを大和の
地に根付かせることとなるのである。

「馬子の干支が馬年っていうのは、おもしろい推理ね。
 納得だわ。
 でも、なぜ、その馬子さんが悪者扱いされたのかしら・・・。」

今日は、いやに神妙なかみさんの言葉である。

(つづく)

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