将棋先生の「盤上・盤外」この一手

湯の町別府の将棋教室から考察した社会をつづります

崩れそうな聖域

 

「崩れそうな聖域」
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僕は以前、小学校の教員をしていました。

で、今だから思うこと、その時々に考えたこと、つづります。

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先月、体調を壊してしまいました。
熱を測ると38度少し。
「こりゃあ、いかんなあ。」と思い、ふとんに入り、少し気分が良くなると本を読む。
また、気分が悪くなって熱を測るとさっきよりあがって39度近く。
しばらくして測るとまたまた38度少し。
少し下がったので、また本を読む。

こんな生活が3日くらい続きます。
その間に何回体温計を使ったかわかりません。
結局、気分がいい・悪いという自分の感覚だけでなく、体温計の証明がほしくなってしまうんですね。

 

考えれば、僕という人間は頭の先からつま先まで「数値」に置き換えられています。
身長・体重、頭の大きさ、胸囲、足のサイズなどの長さや重さはもちろんです。
視力、握力、背筋、ジャンプ力などの身体能力も数値化されています。
血圧、心拍数、体温なども測定の対象としては珍しいものではありません。
知能指数、学力テストの結果なども、ちゃんと数字で置き換えられてます。
医学の進歩により、血液中や尿中の化学物質の量も精密にはじき出されています。
遺伝子の構造さえ数値になってはっきり表される時代がすぐそこまで来ています。

もし、この世に数値化できるものだけが何でも見えるという「数値メガネ」があったとします。
まさに僕は「歩く数値」として見えるはずです。
極端に言えば「バーコード」が歩いているようなものでしょう。
僕を検知器にかければ「ピッ」という音がして「価格 ¥3000」なんて表示されたり、、。
何だかオカルトになってしまいます。

でも、僕たちは、というか僕たちの世代までは「ちょっと待ってくれ。」と言えたわけです。
「僕が今までの人生で身につけてきた『経験』や『精神』はどうだ!
 数値に換算できはしないだろう。
 だから、『数値メガネ』は肝心なところで役に立たないだろう。どうだ!!」

これで、納得できました。
「経験や精神は数値にできない聖域だ」という暗黙の了解があったからですね。
もちろん現在もその聖域は存在しているはずです。

しかしです。
もしかすると、その聖域さえも崩れかけているのかもしれません。
先日僕は、ある2人の子どもの会話を聞いてしまったのです。

「どうしても、倒せないんよな、このキャラ。お前なんでかわかる?」
「ああ、そりゃあ、まだ足りないんや。」
「何が?」
「経験値がまだ200ポイントしかないやんか、最低でも300ポイントないと勝てんよ。」

子ども達が携帯用のゲームをはさんで交わしていた会話です。
ゲームの中とはいえ「経験」という聖域がきちんと数値化されているのです。
そして、それを当然のこととして受け止めている子ども達がたくさんいるのです。
聞けば、ロールプレイングゲームというゲームはほとんどそのようなものだそうです。

ゲーム機が普及し、たくさんの子が熱狂する現代。
ハンディ化し、山登りやキャンプという自然とのふれあいにも顔を出しています。
ゲームに登場するキャラクターは大人気。
発売時には徹夜で並んだり、トラブルが起きることもあるという人気ぶりです。
そして、日常的に「経験値が足りない、精神値を高めなきゃ。」というような会話があふれています。

この子達またはその次の世代が「経験」や「精神」を数値化しないと誰が言えるでしょうか。
僕たちが聖域と思っている内なる体験は、あやういのかもしれないです。

子どもに遊びとして与える道具、僕たちは再確認しなければいけないです。
その道具は創造性を高めますか。
情操豊かにしてくれますか。
思いやりの心をはぐくんでくれますか。
親が自信をもって与えられる遊び道具ですか?

(了)