将棋先生の「盤上・盤外」この一手

湯の町別府の将棋教室から考察した社会をつづります

第3章「女王の国」 その(6)「クックさんと、『ヤマト』が『大和』と書くわけ」

第3章「女王の国」
その(6)「クックさんと、『ヤマト』が『大和』と書くわけ」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第3章「女王の国」 その(5)「倭国=カンガルーか?」 - 将棋先生の「盤上・盤外」この一手

 

中国では紀元前後ごろの日本を「倭国」、日本人のことを「倭人
とよんでいた。

 

 

 

多くの中学校用教科書がさらりと書いている「倭(ワ)」という言
葉・・・。
・・・十八世紀のキャプテンクックさんは、オーストラリアの現地
人使う「私知りません」と言う意味の言葉、「カンガルー」を動物
そのものの名前だと勘違いした。
同様に、紀元一世紀頃、「ワ」を日本全体をさす国の名前だと中国(漢)
の役人が誤解してしまったのではないか。
僕は、そう考えた。
では、その勘違いの元になった言葉は何か・・。
それは漢字で表せば、「吾」、「我」、「私」・・・となる「ワ」
だと思う。
現代は「わたし、わたくし」という場合が多いが、古代、日本人は
自身を指すのに「ワ」という言葉を使っていた。
古代だけではない、今でもそういう使い方は残っている。
たとえば、自分の子を「我が子(ワが子)」と言ったりするでしょ。
弥生時代の日本人の王は現代の感覚で言えば市町村ぐらいの単位を
「国」だと考えていた。
数十から百を超えるかもしれない小さな国が日本に存在し、争って
いたのだ。
当然、自分が治める国には、名前(たとえば「ヤマタイコク」など)
をつけただろうが、それ以上の大きな国、つまり日本全体を名付け
るようなことはなかった。
日本のことを調べに来た漢の役人はこう聞いたはずである。
「王様。王様の国と、お隣の国とそのまたお隣、とにかくここらへ
 んぜーんぶ含めてなん て呼んでるんですか?」
王はこう考えたに違いない。
「(そんなこと、わかんないよなあ・・・。でも、わからないって
  いうのもプライドが傷つくし・・・。まあ、隣の国もいずれは
  侵略してやるつもりだから・・・・)」
そして、答えた。
「隣の国もその隣もすべて『我の国(ワの国)』じゃ。」
漢の役人は、クックさんのように誤解した。
クックさん:「へえ・・・。カンガルーって名前か・・・。」
漢の役人:「へえ・・・。ワの国って名前か・・・。」
そして、文字の専門家である中国人は「ワ」に対して「倭」という
字をあてた。
ちなみに「倭」という文字は、「邪馬台国」の「邪」や「卑弥呼
の「卑」と同じように、あまり良い意味を持っていない。
前に「倭国=さわだ食堂か?」で述べたように「にんべんに委せる」
だもん。
「人まかせ」・「自分で意志を持たない」・「従順」とか
「小さい・みにくい」あるいは「まがった」なんて意味もある。
まあ、当時の日本と中国の関係はそういうものだったのだろう。
中国が日本を「倭」と呼んだ一世紀から三百年がたった。
時はながれ、やがて、日本の大部分を統一する「国」がでてくる。
「ヤマト国」だ。
ヤマト国の王達は考えた。
「われらは倭を統一したぞ。」
「大いなる倭だ。」
しかし・・・。
「しかし、中国に与えられた『倭』という文字は、もうごめんだ。
 われらは戦乱を乗り越えた『平和』の国の王じゃ。
 今こそ『倭』を捨て、『和』を名乗ろう。」
「そうじゃ、そうじゃ 大いなる和じゃ。」
「おう、『ヤマト』を『大和』と書き、その存在を中国に知らしめ
 ようではないか!」
僕にはそのような新しい国作りの鼓動が聞こえる気がする。
「ヤマト」という言葉に「大和」という字をあてた王達の意気込み、
熱い決意を感じるのだ。
これは、蛇足になりますが・・・。
そのように僕が考えている「大和」と言う文字・・・。
戦時中の軍部により、「大和魂」という言葉が若者達を戦地へ送る
道具として利用されたことはとても残念なことだと思います。
大和魂」は「『大』きな平『和』の『魂』」であってほしかったな・・・。
さて、 いよいよ、その「大和時代」に入ります。
その前に今までにいただいた質問や疑問について考えたいと思います。
僕に考える機会を与えて下さった方々に感謝しています。
どうぞ、みなさんも、質問・疑問メールお寄せ下さいね。
というわけで、次回は閑話休題「みなさんの疑問編」です。
(次号に続きます。)


第4章 縄文・弥生の疑問編 (1)「邪馬台国はどこなの?」 - 将棋先生の「盤上・盤外」この一手